駿(Hayao)
駿(はやお)の「意匠」
駿は日華事変に反対を唱えた参謀次長 多田駿 閣下(ただはやお)に由来している。
駿はダブルブレストという非常に難しい意匠となっている。
釦位置、ラペル幅、打ち合い幅すべてに綿密に計算した。
日本人がはじめて着た洋装はフロックコートいわれている。
「駿」はダブルブレストのジャケット、ダブルのベスト、古典的なフロックコートを原型としている。
フロックコートはもともと昼間正礼装であった。
Corvoではフロックコートに、伝統回帰という原点に立った上で、新たな解釈を加え、新たな「意匠」として提案した。
現代の流行に合わせた深いVゾーン。適切な着丈。
また、日本の着物文化の羽織に着想を得、柄物の上質な裏地を使用した。
「駿」は最も懐古的であり、最もフォーマル、それでいて新しい「意匠」である。
駿の縫製の「特長」
「莞爾」と同じくテーラードの伝統を踏襲した仕様。
重くなりがちなダブルブレストであるが、軽量の毛芯を使い、軽い着心地を実現した。
通常のダブルとの大きな相違点として、ベストを着用し前ボタンを開けて着用することを想定し、ダーツを大きく取り、腰を絞った。
アイロンワークを活用した自然な襟のロール、腰の絞りになった。
駿の由来となった多田駿について
多田駿という人物は、昭和の陸軍が持っていた「良心」のひとつだろう。東北に生まれ、幼年学校、士官学校、大学校と陸軍のエリートコースを歩んだ多田は、しかし我々のイメージする堅物の軍人とは少し違っていた。名僧良寛和尚を慕い、中国の文物を愛した。多田は陸軍屈指の中国通で、現地の人と中国語で話すことにも苦労しなかったという。良寛への傾倒もまた多田の風貌に特徴を添えていたようで、多田自身を「良寛を彷彿とさせる」と表した人もいる。また、彼は信念の人でもあった。盧溝橋事件以降の日中戦争では、早期の講和を願い、時に政府とも衝突した。その思いは実らず、やがて現役を退き、館山に隠棲する。 そんな多田であるが、なかなかの新しいもの好きで、しかもお洒落だったようだ。当時としては身長も180cm近くてスタイルがよく、「懐古的」でかつ知的な印象を与える「駿」は、まさしくこの男から連想される意匠にふさわしい。
文;岩井秀一郎 昭和陸軍史の研究家
第26回山本七平賞奨励賞を受賞
著書に「多田 駿伝」「永田鉄山と昭和陸軍」「渡辺錠太郎伝」がある。