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大阪船場センタービル、探索。その一(繊維街の歴史)

 本日は休みということもあり、店舗で少し片づけをした後、船場センタービルを少し歩いてみました。
 
 店の目の前にあるのですがなかなか、赴く機会がなくて。
 
 さすが繊維街ということもあり、多くの生地屋さんがありますね。
 
 特にウール地などを我々のようなサルトリア、テーラーなどの仕立て屋に卸す業者のことを羅紗屋(らしゃや)といいます。
 
 一軒のお店の店員さんにお話を聞かせていただきました。
 
 もともと、船場周辺は戦国時代に石山本願寺を織田信長が下した後、織田政権時代、豊臣秀吉が天下をとったあと大阪を拠点とし水路を整備し商業を発達させたことにより昔からの大商業地帯だったそうです。徳川政権に移った後も交通の便、地理的に日本の中心にあったことによりますます水上交通の発達した商業都市に発達したそうです。
 
 なぜ繊維街になったかというと不満をもった旧武士階級の人々を率い九州で西郷隆盛が明治政府に叛旗を翻し、西南戦争が発生したことによるそうです。 
 
 内乱は大規模で多くの兵士が戦場に赴くことになりました。明治政府軍の軍服を大量に供給する必要がありました。
 
 戦場は九州です。当時は陸上輸送が発達しておらず水上交通の便のいい大阪の船場で外国からウール地を仕入れそれを軍服に縫製することになりました。戦争終結後も羅紗屋、生地屋が集まり一大繊維街が出来上がったそうです。
 
 同じように軍靴を作るために多くの革の卸業者があるそうです。(船場周辺に革の卸があることは私も初耳です。)
 
 いまでは大手商社の参入、スーツ需要の減少などの影響で羅紗屋、生地問屋の数もだいぶ減ってしまったそうです。
 
 その店の方も高齢であと、五年前後で店をたたまれるとのこと。時代の流れとはいえ少し寂しいですね。

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